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宋文洲のメールマガジンバックナンバー第283号(2015.09.04)

「日本凄」病がもたらすもの


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1.「日本凄」病がもたらすもの(論長論短 No.250)
2.小学校三年で初めて作った会社。その名は「ハッスル」
  (オプティム菅谷社長の連載「ぼくらの地球規模イノベーション戦略」 第2回)


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■1.論長論短 No.250

「日本凄」病がもたらすもの
宋 文洲

運転が下手な私は数十年にわたって事故に遭ったことがありません。
しかし、いつ遭ってもおかしくはありません。

一昨年、40年ぶりに新疆に住む姉の家を訪ねようと、砂漠横断の高速道路を走っていると、突然目の前に鉄柵が見えました。とっさにハンドルを切ると車はキーキーと鳴りながら横転しそうになりました。本能的に修正しようとすると車体のコントロールを失いました。どうやって安定状態に戻したかは未だに不明ですが、一生忘れない危ない状況でした。

地元の人によると、羊の群れが道路を横断するために、中央分離帯に移動可能な鉄柵が設けられているそうです。遊牧民が羊の群れを通過させた後に鉄柵を元に戻し忘れたか、風などで鉄柵が勝手に動いたかは知りませんが、とにかくあの鉄柵にぶつかっていたら、今こうやって皆さんにメールは書けなかったでしょう。

「無責任な放牧民は困ったものだ」、「巡回しない当局は税金泥棒だ」など、いろいろな文句が頭を過ぎりましたが、最後に自分に言い聞かせたのは「運転が弛んでいる」ことでした。スピードを下げ前方注意すればもっと早く発見できましたし、避けるのも簡単でした。

私はこのような「危ない目」を実際に事故に遭ったことにしています。しかも一回の事故の後ろに十回の同様の危険が潜んでいると考えます。
そのプレッシャーで緊張感と集中力をなんとか保つのです。

STAP細胞の小保方氏も五輪エンブレムの佐野氏も最初のパクリを見付けた瞬間、私は既にこの人達は黒だと判定しました。決して日本のマスコミのように隣国のパクリに興奮する狭い根性に由来する心理ではありません。
経営コンサルタントの癖に由来する判断です。

飛行機や原子炉などのような人命にかかわる重大なシステムにたまたま一つのミスや事故が発覚した場合、それは一つのミスや事故の問題ではありません。
その偶然な問題の後ろに十倍の同程度の危険が潜んで、ワンランク下の危険が数十倍も潜んでいると解釈できます。組織構成から考え方までも徹底的に見直さないといつか大きな事故に繋がります。

企業の不正会計などのコンプライアンス問題も同様です。たまたまの問題ではなく組織の体質問題だと考えるのが無難です。東芝の問題もその典型です。
案の定、先日また十件の不正会計が通報されました。「通報」でなければ不正が見付からない体質が改めて証明されました。そんな企業が作った原発が「絶対安全」だというから恐ろしいです。首相までも「世界一厳しい基準」「万全の体制を整えている」と豪語するからもっと恐ろしいです。

その甘い発想の下で原発事故が起きて、日本社会に「日本凄い」という病気が蔓延してしまいました。自信を取り戻すための一時的な精神安定剤として当時は良いと思いましたが、いつの間にかそれが麻薬となり依存症となり、不都合から目を逸らす甘さとなりました。自分の凄さを証明するために隣国の粗探しに熱を上げ、批判精神を自虐と見なし、パクリさえも「日本の誇り」と見えてしまうのです。

「社会全体がたるんでいるんじゃないか。」エンブレム白紙撤回に際して経済同友会の小林さんのコメントに賛成ですが、それは他人事ではなく、私達経済人も含まれていることを、強く自分に言い聞かせたいものです。

(終わり)

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http://www.soubunshu.com/article/425268137.html
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今までの論長論短はこちら↓
https://www.softbrain.co.jp/mailmaga/list.html

■2.オプティム菅谷社長の連載「ぼくらの地球規模イノベーション戦略」 第2回

小学校三年で初めて作った会社。その名は「ハッスル」
菅谷 俊二

1回目のメルマガでは、簡単にオプティムの紹介をさせていただきました。
今回は、私事で恐縮ですが、オプティム創業以前のお話をさせてください。

私は、1976年6月13日、兵庫県神戸市に生まれました。私は生まれてすぐに自分の人生に最も影響を与える人物に出会います。それは、父です。(多くの方がそうかもしれませんが)

父は、学校で電子工学を教えていて、大の電子工作好き。また父親は以前、一般企業に勤めていたこともあり、新しいビジネスを考えるのが大好きでした。
いつも、これからこんなビジネスが面白くなる、こんなものが創れるとよく話してくれました。子供の頃からそんなことを聞かされて育った私は、その時点で人生の方向付けがされてしまったと言ってもよいかもしれません。

また、小学校3年生の時には、プログラミング言語と出会います。伯父がコンピュータ「MSX」を買ってくれたのがきっかけです。MSXではBASICというプログラミング言語が使えました。週末は伯父の家で、朝から晩までプログラムを作る、そんな日々を送りました。

その後、ある程度プログラムが出来るようになり、ゲームが作れるようになった私は、自分の作ったゲームを友達に売ろうと思いつきます。チラシも作り、小学生の友達を巻き込み会社もどきを作りました。「ハッスル」という名です。
思えば、今も小学生の時もやっていることは一緒なのかもしれません。

中学時代は、水泳部に入っており、そこで、後に創業メンバーとしてオプティムを一緒に立ち上げることになる野々村耕一郎(現在、オプティムの営業担当役員)と出会います。野々村とだけ特別仲が良かったという事はなく、私は部活の他の友人たちとも仲良くしていました。しかし、野々村は頭の回転が早く、リーダーシップもあったため、将来何かやるときには誘おうとひそかに心に決めていました。

もう一人の創業メンバー徳田整治とは、高校時代に出会いました。徳田とは、高校の始業時間ギリギリの時間のバスでよく会いました。話をするうちに気も合い色んな話をするようになりました。ある時、いつものように徳田に様々な将来構想を話していました。しかし私はその時、徳田に聞いてみたいことがありました。それは「今まで話してきた俺の考えをどう思うか?実現可能だと思うなら徳田も力を貸してくれないか?」という事でした。徳田は即答で「一緒にやろう!」と言ってくれました。

私ははじめて人生の目的を共有できる仲間を得たのでした。その後、野々村にも「力を貸してくれないか?」と声をかけ、野々村も協力をしてくれることになり、現在のオプティムにつづく歴史が幕を明けました。

次回、ベンチャー創業当時のご紹介させていただきます。
(世界を目指して土管からのスタートへ)

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2015年9月1日に、弊社オプティムの東証一部への市場変更申請を発表させていただきました!
昨年2014年10月の東証マザーズ上場から東証の規程上最短の1年、2015年10月での東証一部上場目指します!
関連ニュースへのリンク↓
http://news.finance.yahoo.co.jp/detail/20150901-00935031-fisf-stocks
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(つづく)

オプティム ホームページ
http://www.optim.co.jp/
著書:ぼくらの地球規模イノベーション戦略
http://www.amazon.co.jp/dp/4478083754

(終わり)

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