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宋文洲のメールマガジンバックナンバー第278号(2015.06.26)
この生あるは
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1.この生あるは(論長論短 No.245)
2.南極観測隊のリーダーシップ
(福西浩 東北大学名誉教授 連載「南極~フロンティアへの挑戦」 第3回)
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■1.論長論短 No.245
この生あるは
宋 文洲
タクシーに乗って行き先を告げると「お客さんは中国の方ですか?」と聞かれました。「はい。」と答えると「私は中国生れです。1956年に日本に帰ってきました。両親に絶対中国人と仲良くしないとダメだと言われ続けました。」と言うのです。
日本の敗戦は1945年でした。中国は「日本国民も同じ戦争の被害者」という考えの下でその後の数年間で日本の軍人と民間人を船に乗せて送還したはずです。孤児達は地元の人達が育てましたが、両親のいる家族がその後10年以上、奥地の西安で暮らしたとは理解できないです。その好奇心に掻き立てられ、彼の話を聞くことになりました。
「奥地に逃げたので帰国できるとは知りませんでした。両親は山形県から満州に渡った開拓民でした。敗戦後、軍人と役人が先に逃げたので、開拓民達は各自の判断で逃げ道を決めました。山形県の開拓団は満州から西の方に逃げることにしましたが、赤ん坊の姉が泣くということで団長に殺されました。私は西安に着いて暫くたってから生れました。」(ドライバー)
「悲しい話ですね。殺さず地元の百姓に託せばいいじゃないですか。」(宋)
「団体行動なので皆が赤ん坊を団長に預けました。おっしゃるようなことは後になって思い付くものです。それは母の一生の悔いでした・・・。
奥地に居たので帰国できるとは知らずに10年近く西安で暮らしていました。
日本に帰ってきてだいぶ年数がたったある日、居間にいくと母が激しく泣いていました。テレビで残留孤児の帰国ニュースをやっていました。母が姉のことを思い出したのでしょう」(ドライバー)
「・・・・・・。」(宋)
この会話は数カ月前の話です。今日になって読者の皆さまに紹介する気になったのはある本を読んだからです。それが今回「宋メール」のタイトルの「この生はあるは」です。
著者の中島幼八さんは上述のドライバーと似た経験しています。2歳の時に家族と満州に渡り、敗戦後に生まれた妹さんを飢餓で亡くしました。違うのはご両親が万策尽きた時息子を生かすために断腸の思いで地元の中国人に預けて帰国したことです。
ぎりぎりの生活する貧しい養父母達が13年間にわたり彼を育て上げ、最後に日本の実母のもとへと送り返しました。
悲しい出来事でありながら、この本の内容はユーモアに溢れ、暗くありません。
中島幼八さんの養母はたくましく知恵に溢れる女性でした。
若い独身の養母は中島さんをもらってから結婚しました。最初の養父は貧しい農民でした。自分の子供として大切にしてくれましたが、中島さんが8歳の時に病気で亡くなりました。養母は中島さんを連れて二番目の養父と結婚しました。中島さんは12歳の時に重い病気にかかって養父が彼を牛車に乗せていろいろな漢方医を訪ねて歩きました。
中島さんの三番目の養父は港の日雇い労働者でした。僅かの稼ぎの中から学費を捻出し、彼を学校に通わせました。
1958年、中島さんが16歳の時、最後の日本人送還船に乗って日本に帰国しました。
上述のドライバーさんのお母さんがテレビでみた帰国の日本人残留孤児達は日中国交回復後の話であり、敗戦後30年以上も経ちました。中島さんは敗戦13年後に送還船に乗って帰国できた珍しい残留孤児でした。
中島さんの家の壁に中国農村の画がかかっています。
「それは私が住んでいた黒竜江省安寧県です。日本は私の祖国ですが、中国は私の故郷です。」と中島さん。
P.S.
中島幼八さんの「この生あるは」は数年前に既に完成しましたが、出版してくれる出版社がなかなかないため、自費出版しました。
販売チャネルがないので中島さんは近所の本屋に営業に行きました。
本の内容に感動した本屋のオーナーが協力してくれて一気に売れました。
本屋のオーナー曰く「私が売ったのは本ではなく感動です。」
その後、この本にマスコミも注目し始めました。6月10日の朝日新聞も取り上げました。この本を読みたい方はどうぞ↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4990832302
来月、この本は中国でも出版される予定です。翻訳ではなく、中島さんがもう一度中国語で書きあげたのです。
(終わり)
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http://www.soubunshu.com/article/421284060.html
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■2.東北大学 福西浩名誉教授 連載「南極~フロンティアへの挑戦」 第3回
南極観測隊のリーダーシップ
福西 浩
私が越冬隊長を務めた第26次越冬隊の総数は35名で、全員男性でした。隊員は設営隊員(17名)と観測隊員(18名)からなります。
設営隊員とは、建物、発電機、雪上車、通信、調理、医療を担当する専門技術者、通信士、調理師、医師などです。一方、観測隊員とは、気象、電離層、雪氷、オーロラ、生物、地学、医学などの分野で観測・調査を担当する研究者や技術職員です。つまり観測隊は様々な分野のプロが集まった集団です。
しかも南極での越冬を厭わない人たちですから、皆かなり強い個性の持ち主です。
この隊員たちが1年にわたって孤立した生活を送るので、いろいろな工夫が必要になってきます。日本での生活では、昼間に会社で働いて夜は家族と過ごすなど、独立した生活空間を行き来することができます。でも南極での越冬生活では全員が一つの閉鎖空間に閉じ込められることになるので、越冬当初は当然いろいろな感情的対立も起こります。
でも一ヵ月もすると自分の個性を隠さず晒すことができるようになり、相手の個性も理解できるようになってきます。つまり互いに相手を尊敬する人間関係が生まれます。そうなると人と異なる個性は欠点ではなく、相手のないものを補う利点となり、越冬生活を楽しくするために各々が様々な工夫するようになります。
厳しい自然の中で課せられた困難な目標を達成するためには、一人ひとりの隊員がもつ能力を最大限に発揮できる環境を創り出す必要がありますが、毎日の生活が楽しくなる工夫こそ、そのような環境づくりの第一歩であると皆が気づくからです。
越冬隊は少人数なのでどんな仕事をする場合も互いに協力し、助け合あって行う必要があります。例えば、雪上車の整備には機械担当隊員のもとに3、4名が手伝いとして参加します。長期にわたる南極大陸内陸部の調査を実施する際は、異なる分野の隊員を10名ほど集めます。
こうしたチームが力を発揮するための工夫として、チーム全体の目標を明確にし、各々はチームの中での自分自身の役割を明確にすることを常に心がけています。
また敏速に行動できるように、「5分前ルール」を大事にしています。これは共同作業を行う5分前に集合するというルールのことです。こうすることによって予定した時間に作業を開始することができ、作業の効率を高めることができるだけでなく、作業開始前に周囲を観察し、危険を察知する余裕も生まれます。
南極観測隊では共同作業のリーダーは作業ごとに変わるので、一人ひとりがリーダーシップを発揮する必要があります。では越冬隊の責任者である越冬隊長のリーダーシップとはどういうものでしょうか。私の経験から、隊全体の目標を明確にし、行動スケジュール、人員配置、協力体制を綿密に考え、実現がかなり困難と思われていたプロジェクトを成功させる力であると考えたいと思います。
そのためには厳しい自然環境を謙虚な気持ちを持って自分自身で観察し、隊員の生命と安全を絶えず意識し、楽しい人間関係を創り出す工夫や個々の隊員の能力を最大限に引き出す工夫を率先してやる努力が求められます。南極の自然が真のリーダーシップの意味を教えてくれたと感じています。
(つづく)
執筆者:福西 浩(東北大学名誉教授)
東京都出身、東京大学理学部卒、同博士課程修了、理学博士。米国ベル研究所研究員、国立極地研究所助教授を経て、東北大学教授として宇宙空間物理学分野の発展に努める。南極観測隊に4度参加し、夏隊長や越冬隊長を務める。
2007年から4年間、日本学術振興会北京センター長として日中学術交流の発展に尽す。2011年から3年間、東北大学総長特命教授として教養教育の改革を推進する。専門は宇宙空間物理学で、主に地球や惑星のオーロラ現象を研究している。現在は、公益財団法人日本極地研究振興会で南極・北極観測の支援と研究成果の普及・教育活動を推進している。
公益財団法人日本極地研究振興会ホームページ:http://kyokuchi.or.jp/
(終わり)
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